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いきなりアルバムの写真に母校が登場して驚きました。小生は旧都立千歳高等学校の21期生でした。アルバムの持ち主の建築士の方が、おそらく戦災で焼けた校舎の建て替えに携われたのかも知れません。いまは旧明正高等学校と統合されて、校名も変わり… 何も面影は残されていません。ただ近くにあった東京瓦斯の制圧タンクだけが健在でした。小生もまもなく、78歳を迎えます。
古いアルバムシリーズ好きです😊持ち主がおそらくこの世にいないのが悲しいけど😢
アルバムにはこの方の人生が凝縮されているので、辿るといろいろなドラマを想像してしまいます。
歴史的建造物でないかぎり、70年もたてば建物は建て替えられてしまいますね。まして人が元気で活動できる時間はもっと短いかもしれません。一日一日を大切に記憶しておきたいものです。
あの戦争から7・8年…学校の建築工事の写真を見ると、日本に明るい時代が戻ってみんな希望に向かって邁進していた時代だったんだな…と感じます。
○○年前、確かに存在した・・・このナレーションに感動します。
生前母から「お父さんとの初めてのデートは浜離宮庭園だった」と聞きました。丁度動画に紹介されていた昭和28年の事です。その後も新宿御苑などにもいっていたそうで、とても感慨深い動画でした。ありがとうございます❗️😊
「行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず。」ですね。今色んな場所に集う人も70年経てばその場所の映像を見て同じ気分になるのでしょうね。人生儚いですね。
いつも貴重な映像ありがとうございます。探索お疲れさまでした😄
光陰矢のごとし。。。ほんとそうですよね(´・ω・`)アルバムの持ち主も既に天界に召されているでしょうし、アルバム撮影の後どういう生活だったのかも気になります。高度経済成長にかかるその前、充実した生活を送っていたんですね!
小田急TIME様 いつも切なく思ったりジーンとしたりワクワクさせてくださりありがとうございます。個人のアルバムシリーズ、主様には一番大変でしょうけれど自分は一番好きなシリーズです。自分と同じこの地球に同じ時間を共有できることだけでもすごいこと、そしてほんの少し前まで大変な時代を生き抜く諸先輩の生き生きとしたご様子が伺えるからです。でもいつもラストは切なくなってしまいます。もうアルバムの持ち主様はいらっしゃらないという事になんとも言えない気持ちになります。今日という日は自分にとり嫌なことや悲しいことがあった日でも何処かの誰かにとっては迎えたくても迎えることのできなかった日なのですね。 いつも本当にありがとうございます。次回作品も楽しみにしています。
大田区在住だった幼稚園児だったころ、お隣のお母さんとお向かいのお婆さんとの会話:「今度世田谷に越すことになりました」「おや、お大変ですねぇ」幼心に世田谷は大変な所なんだと思った。今は隔世の感。笑えるねw
園芸高校の「東園の七十年」(1978)によれば、戦後の校舎は「雨が降ると漏れるので雨水を受け、机はわきに寄せ…」のようだったとあり、写真で紹介されたように、1951年に本校舎が増改築されています。こうした教育施設の建設にも従事されてきたアルバムの持ち主の方、ご自分の仕事に大きな誇りを持っていられたことがアルバムからも感じられます。(なお千歳高校ですが、1952年2月に火災にあっています(「世田谷区議会史」)ので、その復旧工事かもしれません。)
@@yu_ino6478 旧千歳高校のOBですが、てっきり戦災で焼けたと思っていました。1952年の火災だったんですね。ありがとうございました。
路線バスの旅の番組の中で徳光アナが母校だとのことで菅刈小学校を訪れていましたね
Merci beaucoup pour cette très belle vidéo ! 👍🙏
昭和50年代前半に都立千歳高校に在学しておりました在学中に配布された校史「千歳の春秋」によると昭和27年2月17日夜に校舎西側で出火し東側へ向かって延焼焼失したことで、同年4月から9月にかけて校舎復旧工事を行ったことが記されており、その僅か半年間の貴重な写真と思われます (昭和16年完成の校舎は戦災被害を受けなかったものの昭和27年の火災で学校資料等を含め焼失)現在の芦花高校校舎は南北方向(4:14)に建てられていますが、件の復旧校舎は正門(3:13)から少し奥へ入った所に東西方向に建てられていたようです復旧校舎を含め木造2階建て校舎2棟は昭和30年代末から昭和40年代末にかけて鉄筋4階建て2棟に替えられ、自分が在学していた当時は既に復旧校舎の影も形もありませんでしたその母校近くの「廻沢犬抑留所」(6:11)なるどちらかと云うと忌避施設が在ったことを知りませんでしたが、現在同所にある東京都動物愛護相談センターはその後身でしょうか?
@@robotsunami3783 旧千歳高校のOBです。戦災ではなく、火災だったんですね。記憶を辿ると、薄っすら聞き覚えがあったような気も…。卒業して数年は訪問したり、十字屋に顔を出したりしましたが、もう60年近くご無沙汰です。ぶらり、出かけてみようかなと…。ありがとうございました。
@@恭博森本様21期(昭和37年入学)の方とは、優秀な学区合同選抜時代の大先輩で畏れ多いです (自分は悪名高き学校群世代でしたが、昭和30年代以前から勤続されていた英語のC先生など何人かのベテラン教師がまだ教鞭をとられていました)「戦災焼失区域表示 帝都近傍図」で見ると粕谷町や廻沢町のあたりは塚戸十字路の一角を除いて幸い戦火を免れています (現在の環七の外側にあたるエリアは近郊農村だったこともあり比較的空襲を受けていなかったようです)21期の方ということは復興校舎(南校舎西部分)や旧制中学時代の木造校舎で学ばれていたのかもしれませんね自分の時代は復興校舎跡に昭和40年代末期竣工の鉄筋校舎(南校舎)が建てられており、校長室・事務室、1年生用教室、理科4科目実験室、芸術科目教室で構成されていました千歳が閉校して数ヶ月後(2002年6月頃?)に同期の仲間たちと高校を訪れたところ、校内には誰もおらず既に一部解体がはじまっており"千歳高校閉校"をあらためて実感しました帰り際に正門前で集合写真を撮っていたところ、十字屋をリタイアされたオヤジさんにお会いすることができいろいろお話しをうかがうことができましたどうぞお元気でお過ごしください
@@robotsunami3783様こんにちは たしかに府立12中時代 の木造校舎で3年間、学んでいました。C 先生とは千種先生ですか? いきなり黒板に、真面目な顔でスカンジナビア半島を大描きされる奇人でした…。3年のクラス担任は石渡信一郎先生で、ご長寿でしたが、数年前に亡くなられました。古代史の研究家でした。20年程前、十字屋の親父さんは元気だったようですね。今でも… どうでしょうか?
@@恭博森本様ご返信ありがとうございますやはり旧制中時代の木造校舎で学ばれていたんですねC先生はその通りで、自分が1年生の時にGrammarを教わりましたが年度末に退職され、数年後亡くなられた際には週刊誌に「都立高校名物教師逝く」のようなタイトルで記事が掲載されました石渡先生は自分が1年生の途中で離任された英語の先生という認識でしたが、後に考古学同好会の友人から日本古代史研究家だと教えられました千歳には研究に打ち込んだり探求心溢れるユニークな先生が多かった気がします
@@robotsunami3783 様仰るとおりです。公立学校は定期的に異動するものですが、どうも千歳はその限りにあらずだったようです。異様に長期勤務の先生方が多かったと聞きました。スカ…半島の千種先生は、旧制静岡高等学校で教鞭を執られ、亡くなられた際には新聞の訃報欄に掲載されました。石渡先生の母校は旧制の東京文理大で、英語教師の傍ら、ライフワークの古代史研究の著書は数十冊に及びました。90歳を超えても精力的に著作に励んでおられました。
映像や写真は、撮影された当時の生活や時代的な風景を、後世に遺す為にも一番必要不可欠な存在。自分が覚えている過去の一般的に些細な出来事や事件や事故をもう一度当時を振り返ってみるのもアリかと思います。
いきなりアルバムの写真に母校が登場して驚きました。小生は旧都立千歳高等学校の21期生でした。アルバムの持ち主の建築士の方が、おそらく戦災で焼けた校舎の建て替えに携われたのかも知れません。いまは旧明正高等学校と統合されて、校名も変わり… 何も面影は残されていません。ただ近くにあった東京瓦斯の制圧タンクだけが健在でした。小生もまもなく、78歳を迎えます。
古いアルバムシリーズ好きです😊
持ち主がおそらくこの世にいないのが悲しいけど😢
アルバムにはこの方の人生が凝縮されているので、辿るといろいろなドラマを想像してしまいます。
歴史的建造物でないかぎり、70年もたてば建物は建て替えられてしまいますね。まして人が元気で活動できる時間はもっと短いかもしれません。一日一日を大切に記憶しておきたいものです。
あの戦争から7・8年…
学校の建築工事の写真を見ると、日本に明るい時代が戻ってみんな希望に向かって邁進していた時代だったんだな…と感じます。
○○年前、確かに存在した・・・
このナレーションに感動します。
生前母から「お父さんとの初めてのデートは浜離宮庭園だった」と聞きました。丁度動画に紹介されていた昭和28年の事です。その後も新宿御苑などにもいっていたそうで、とても感慨深い動画でした。ありがとうございます❗️😊
「行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず。」ですね。今色んな場所に集う人も70年経てばその場所の映像を見て同じ気分になるのでしょうね。人生儚いですね。
いつも貴重な映像ありがとうございます。探索お疲れさまでした😄
光陰矢のごとし。。。ほんとそうですよね(´・ω・`)
アルバムの持ち主も既に天界に召されているでしょうし、
アルバム撮影の後どういう生活だったのかも気になります。
高度経済成長にかかるその前、充実した生活を送っていたんですね!
小田急TIME様 いつも切なく思ったりジーンとしたりワクワクさせてくださりありがとうございます。
個人のアルバムシリーズ、主様には一番大変でしょうけれど自分は一番好きなシリーズです。
自分と同じこの地球に同じ時間を共有できることだけでもすごいこと、そしてほんの少し前まで大変な時代を生き抜く諸先輩の生き生きとしたご様子が伺えるからです。でもいつもラストは切なくなってしまいます。もうアルバムの持ち主様はいらっしゃらないという事になんとも言えない気持ちになります。今日という日は自分にとり嫌なことや悲しいことがあった日でも何処かの誰かにとっては迎えたくても迎えることのできなかった日なのですね。 いつも本当にありがとうございます。次回作品も楽しみにしています。
大田区在住だった幼稚園児だったころ、お隣のお母さんとお向かいのお婆さんとの会話:「今度世田谷に越すことになりました」「おや、お大変ですねぇ」幼心に世田谷は大変な所なんだと思った。今は隔世の感。笑えるねw
園芸高校の「東園の七十年」(1978)によれば、戦後の校舎は「雨が降ると漏れるので雨
水を受け、机はわきに寄せ…」のようだったとあり、写真で紹介されたように、1951年に本
校舎が増改築されています。こうした教育施設の建設にも従事されてきたアルバムの持ち主
の方、ご自分の仕事に大きな誇りを持っていられたことがアルバムからも感じられます。
(なお千歳高校ですが、1952年2月に火災にあっています(「世田谷区議会史」)ので、そ
の復旧工事かもしれません。)
@@yu_ino6478
旧千歳高校のOBですが、てっきり戦災で焼けたと思っていました。1952年の火災だったんですね。ありがとうございました。
路線バスの旅の番組の中で徳光アナが母校だとのことで菅刈小学校を訪れていましたね
Merci beaucoup pour cette très belle vidéo ! 👍🙏
昭和50年代前半に都立千歳高校に在学しておりました
在学中に配布された校史「千歳の春秋」によると昭和27年2月17日夜に校舎西側で出火し東側へ向かって延焼焼失したことで、同年4月から9月にかけて校舎復旧工事を行ったことが記されており、その僅か半年間の貴重な写真と思われます (昭和16年完成の校舎は戦災被害を受けなかったものの昭和27年の火災で学校資料等を含め焼失)
現在の芦花高校校舎は南北方向(4:14)に建てられていますが、件の復旧校舎は正門(3:13)から少し奥へ入った所に東西方向に建てられていたようです
復旧校舎を含め木造2階建て校舎2棟は昭和30年代末から昭和40年代末にかけて鉄筋4階建て2棟に替えられ、自分が在学していた当時は既に復旧校舎の影も形もありませんでした
その母校近くの「廻沢犬抑留所」(6:11)なるどちらかと云うと忌避施設が在ったことを知りませんでしたが、現在同所にある東京都動物愛護相談センターはその後身でしょうか?
@@robotsunami3783
旧千歳高校のOBです。戦災ではなく、火災だったんですね。記憶を辿ると、薄っすら聞き覚えがあったような気も…。
卒業して数年は訪問したり、十字屋に顔を出したりしましたが、もう60年近くご無沙汰です。ぶらり、出かけてみようかなと…。
ありがとうございました。
@@恭博森本様
21期(昭和37年入学)の方とは、優秀な学区合同選抜時代の大先輩で畏れ多いです (自分は悪名高き学校群世代でしたが、昭和30年代以前から勤続されていた英語のC先生など何人かのベテラン教師がまだ教鞭をとられていました)
「戦災焼失区域表示 帝都近傍図」で見ると粕谷町や廻沢町のあたりは塚戸十字路の一角を除いて幸い戦火を免れています (現在の環七の外側にあたるエリアは近郊農村だったこともあり比較的空襲を受けていなかったようです)
21期の方ということは復興校舎(南校舎西部分)や旧制中学時代の木造校舎で学ばれていたのかもしれませんね
自分の時代は復興校舎跡に昭和40年代末期竣工の鉄筋校舎(南校舎)が建てられており、校長室・事務室、1年生用教室、理科4科目実験室、芸術科目教室で構成されていました
千歳が閉校して数ヶ月後(2002年6月頃?)に同期の仲間たちと高校を訪れたところ、校内には誰もおらず既に一部解体がはじまっており"千歳高校閉校"をあらためて実感しました
帰り際に正門前で集合写真を撮っていたところ、十字屋をリタイアされたオヤジさんにお会いすることができいろいろお話しをうかがうことができました
どうぞお元気でお過ごしください
@@robotsunami3783様
こんにちは たしかに府立12中時代 の木造校舎で3年間、学んでいました。
C 先生とは千種先生ですか? いきなり黒板に、真面目な顔でスカンジナビア半島を大描きされる奇人でした…。3年のクラス担任は石渡信一郎先生で、ご長寿でしたが、数年前に亡くなられました。古代史の研究家でした。
20年程前、十字屋の親父さんは元気だったようですね。今でも… どうでしょうか?
@@恭博森本様
ご返信ありがとうございます
やはり旧制中時代の木造校舎で学ばれていたんですね
C先生はその通りで、自分が1年生の時にGrammarを教わりましたが年度末に退職され、数年後亡くなられた際には週刊誌に「都立高校名物教師逝く」のようなタイトルで記事が掲載されました
石渡先生は自分が1年生の途中で離任された英語の先生という認識でしたが、後に考古学同好会の友人から日本古代史研究家だと教えられました
千歳には研究に打ち込んだり探求心溢れるユニークな先生が多かった気がします
@@robotsunami3783 様
仰るとおりです。公立学校は定期的に異動するものですが、どうも千歳はその限りにあらずだったようです。異様に長期勤務の先生方が多かったと聞きました。スカ…半島の千種先生は、旧制静岡高等学校で教鞭を執られ、亡くなられた際には新聞の訃報欄に掲載されました。石渡先生の母校は旧制の東京文理大で、英語教師の傍ら、ライフワークの古代史研究の著書は数十冊に及びました。90歳を超えても精力的に著作に励んでおられました。
映像や写真は、撮影された当時の生活や時代的な風景を、後世に遺す為にも一番必要不可欠な存在。自分が覚えている過去の一般的に些細な出来事や事件や事故をもう一度当時を振り返ってみるのもアリかと思います。